世界の終わりに向けて〜恋して死にたい〜

1999年4月、僕は高校生になった。
ノストラダムスの大予言を7月に控え、そんな予言が当たってたまるかと内心バカにしていた。
でもどこか頭の片隅から抜けず、世界が終わるとしたらどういう風にその時を迎えるか考えていた。

「世界最後の日に何をして過ごすか。」「世界最後の日に何を食べるか」
そんなことが話題に上がっていたりした。
誰も本気で世界の終わりを信じているわけではないが、なんとなく世界の終わりについて考えていた。

世紀末の不安というのは今ではすっかり影をひそめ、失われた10年どころか20年という話になっている。
一体何が終わり、何が始まり、何が失われたというのだろうか。

その何かが失われる前、高校生の僕にとってなんとなく好きだったドラマをyoutubeで見つけた。

to Heart 〜恋して死にたい〜


プロボクサーを目指す青年・時枝ユウジ(演・堂本剛)と彼に思いを寄せている少女・三浦透子(演・深田恭子)の純愛を片思いの切なさを通して二人の関係を絶妙に描いていく。

世界が終わる前に、恋して死にたいという分かりやすい青春恋愛ドラマである。
これが当時の僕にとって、とても面白いわけではないのに、時代的にしっくりくるドラマだった。
僕も学生が終わったら、こんなチャラい生活を送りたいと思わせるようなドラマだった。
ちなみに当時は深田恭子の良さが全くもって分からず、最近の深田恭子は綺麗になって色気も出てきたなと思い、丁度このドラマのことを思い出していた。

恋して死にたいという、死を連想させながらも生きることの良さを感じさせるのはどこかゴンドラの唄に通じる所がある。
命短し恋せよ乙女というフレーズに心あたりがある人は多いと思う。



1914年に始まった世界大戦の翌年にあたる1915年にゴンドラの唄は発表された。
黒澤明監督の「生きる」にも使われているので、大正の歌にしては有名である。
世界的な不安を前に、いかにして生きるのかというのは戦争であれノストラダムスであれ、深刻さは違うが似たような所があるのではないだろうか。


現在の方がより深刻な問題が浮かび上がっているような気がする。
大正時代と世紀末のなんとなくある不安の前提には、時代の変化によるどこか希望のようなものが見えていたように思える。
昭和になったばかりの昭和2年、芥川龍之介は「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」で自殺した。

なんとなくある不安。
なんとなくある希望。

先進国にとっては不景気な現在の状況はなんとなくではなく確実な不安であるが、発展途上国にとってはなんとなくある希望の状況である。

たまにはくだらない青春ドラマでも見て、なんとなく幸福な気分になるのも悪くない。
そんなことを思いつつ、流れた時の多さに驚いている。
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by masarumizushima | 2013-08-28 03:55 | 日記

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