D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?

久しぶりに小説を読んだ。
以前からファンである有吉玉青さんの「ぼくらはきっとすごい大人になる」を本屋で見つけ、つい手にとってしまったので、その勢いのまま電車の中ですぐに読み終わってしまった。
有吉さんの短編が特に好きで、短いからこそ、すっと流れていく心の揺れ動きが僕の心をさらりとなでていく。

日本に戻ってきて最初になんとなくこの本を選んだのは、友人が「30だし若々しいことをしよう」という連絡をくれたのがきっかけになったからだ。
記憶というのは不思議なもので、場所によってそれぞれに記憶が蓄積されているような気がする。
東京で10年以上住んでいる友人達にとって10年前というのはかなり前のようだけれども、ぼくにとってはついこの間のような気がする。僕にとって10年前のパリは遠い昔のようで、12年前の東京というのはつい最近のような気がしている。
さすがに高校生だったころがつい最近のことのようだとまでは思わないが、なんとも不思議な気分にさせられている。

滞在一週間目は観光客のような気分で東京や日本を見れているのだが、二週間も経つと現実味を帯びてきてギャップに苦しむことも出てくる。
祖国である日本で、しかも20年も住んでいた土地でここまでギャップを感じることになるとは予想もしていなかったが、ラーメンをすすって食べれなくなっている時点で気付くべきだったのかもしれない。

僕は幼い頃に大人になる自分をまったく想像出来なかった。きっとみんなそうだろう。あんな大人にはなりたくないと思っていた大人に、今の子供から見られているかもしれない。
いつの間にか年齢を重ね、いつの間にか大人の仲間入りをしている。
それは一体いつからなんだろう。

そんなことを思いながらこの小説を読んだ。
小学生が主人公の短編6編。
この小説を読んで、かつての自分の姿を思い出した。
それと同時に、すぎてしまった時間の多さにも気付かされた。

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」というゴーギャンの絵を思い出す。 ゴーギャンはこの絵を描いた後にゴーギャンは自殺未遂をしてるわけだが、どこへ行くのかとい未来のことを考える上で、年齢の差というのは今まで思っていた以上に大きいように思う。

ナポレオンは「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」と言っていますが、未来のことを語り続けるというのは狂人にしか出来ないのだろう。
そう思うと自分で自分のことを「ごく一般的な普通の人」と思っているので、生きるか死ぬか紙一重の狂いというところで生きれる自信がないので、普通の人生をこの先も送っていくような気がしてる。

小説の話に戻ると、小学生にとって未来というのは根拠なく明るいものであるし、そうあるべきものである。
しかし子供は大人が思っている以上に大人で、そしてちゃんと子供である。
その大人と子供の二面性のバランスが、年齢を重ねた今では大人の部分が多くなっただけで、未だに子供の面も沢山ある。そしてそのままおじいちゃんになって亡くなるのだろう。
自分で自覚することなくいつの間にか変わってしまったバランスを、この小説を読むことで思い出し、電車の中でぽろりと涙してしまった。

それは単純に感動したとかそんなことではなくて、いつの間にか忘れてしまっていた僕の心に爽やかな風が通っていったからだろう。
春の気持ちのいい季節に、こんな小説に出会えたことをとても嬉しく感じている。
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by masarumizushima | 2014-04-29 04:10 |

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