ネクロフィリアとフェティシズム

世の中には変態が多いものである。
僕もその一人であると自負しているわけですが、時代の英雄や有名人にも変態は多いわけである。
そもそもみんな変態な気がしますがそこらへんは僕の勝手なエゴで、自分は一人じゃないと思いたいがための思想に違いないので省略しましょう。

その数々の変態の中から今日は19世紀フランスで一番有名だった女優サラ・ベルナールを紹介しましょう。

まずはwikipediaからの引用。

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サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt, 1844年10月22日 – 1923年3月26日)はフランスの舞台女優。

サラ・ベルナールはパリで生まれた。本名はアンリエット・ロジーヌ・ベルナール。"Youle."の名で知られたオランダのユダヤ人の売春婦Judith van Hardの、最年長の生き残った私生児であった。伝えられるところでは、彼の父親はフランス人弁護士のEdouard Bernardであったとのことである。彼女はフランスのカトリック修道院で教育を受けた。生活のため、彼女は女優の経歴と、売春婦の経歴を兼ね合わせた。(当時2つの職業は、大雑把に言って同程度に恥ずべき職業と見做されていた。)彼女は演劇の訓練のため、de Morny公爵の援助によりde Musique et Déclamation芸術学校へ入学した。

彼女の舞台経歴は1862年に、大部分は喜劇と道化芝居から始まった。彼女は1870年代にヨーロッパの舞台で名声を得ると、間もなく需要の多い全ヨーロッパとアメリカでも名声を得た。彼女は間もなく真面目な演劇の女優としての才能も現し、「聖なるサラ」との名を博した。恐らくは19世紀の最も有名な女優だったであろう。

サラ・ベルナールは主として舞台女優であったが、様々なプロダクションからいくつかのシリンダーやディスクによる録音を作った。最も初期の物の1つは、1880年代に行われた、ニューヨークのトーマス・エジソン宅を訪れた際のジャン・ラシーヌの『フェードル』からの朗読である。多才なことに、彼女は視覚的芸術にも熱中し、演劇のみならず絵画や、さらにはAntonio de La Gandaraのモデルとなったのみならず、自分自身の彫刻をも行った。彼女はまた、彼女の人生に亘った一連の本や戯曲を出版しようとした。

画像:Alphonse Mucha Medea.jpg
ミュシャによるポスター彼女の社交生活も同様に、絶え間なく活動的だった。彼女はベルギーの貴族であるリーニュ王子、Charles-Joseph-Eugene-Henriと恋愛関係を持った。彼との間には1864年に、彼女のただ1人の子である作家のモーリス・ベルナールが生まれた。(彼は後にポーランドの王女、Maria Jablonowska(1863-1914)と結婚した。)その後の愛人には数名の芸術家(ギュスターヴ・ドレ、ジョルジュ・クレラン)および俳優(Mounet-Sully、ルー・テリジェン)がいた。彼女は1882年にロンドンでギリシア生まれの俳優、Aristides Damala(aka Jacques Damala)と結婚した。その結婚は、法律上は1889年にDamalaが34歳で死去するまで持ちこたえたが、主として若い俳優のモルヒネ依存により、早々と崩壊した。

1885年にサラは、当時無名の挿絵画家だったアルフォンス・ミュシャにポスター製作を依頼する。年の瀬で主だった画家がクリスマス休暇をとっていたため、急遽ミュシャに白羽の矢が立ったという。ミュシャがこのとき作ったポスター「ジスモンダ」はパリ中で脚光を浴び、ミュシャがアール・ヌーヴォーの象徴として活躍するきっかけとなった。

サラ・ベルナールはまた、1900年の"Le Duel d'Hamlet"にハムレット役でデビューした、無声映画の女優のパイオニアの1人である。(技術的には、この映画には吹替えられたセリフが録音されたシリンダーが付随しており、無声映画ではない。)彼女は8本の活動写真と2本の伝記映画すべてに主演した。伝記映画の後者は、1912年の"Sarah Bernhardt à Belle-Isle"(自宅での彼女の毎日の生活に関する記録映画)を含んでいる。

サラ・ベルナールは1914年、レジオンドヌール勲章を授与された。

重傷を負った10年後の1915年、彼女は右脚を切断し、数ヶ月の間車椅子に座ったままだった。それでも彼女は、木製の義足を必要としたにも関わらず、仕事を続けた。彼女は息子のモーリスの腕の中で息を引き取った。彼女はフランスより国葬の礼を受け、パリのLe Père Lachaise墓地に埋葬された。彼女が豪華な棺の中で就寝したという逸話があるが、この棺は生前に手放し、彼女の埋葬には用いられなかった。

サラ・ベルナールは、バイン街1751のハリウッド名声の歩道に星型がある。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の中の架空の人物である女優La Bermaは、サラ・ベルナールから霊感を与えられた。

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僕がこの中でも注目したいことが2点あります。

一つ目
「当時、女優と売春婦の2つの職業は、大雑把に言って同程度に恥ずべき職業と見做されていた。」

日本でも少し前までは金融会社のCMに出るということはイメージ低下につながるので金融関係のCMに出るタレントは少なかったものである。
売り出し中のタレントしか出ないものだった。そもそもサラ金なんだから当たり前の話である。
イメージの問題なのである。
風俗嬢と売春婦にもかなりのイメージの違いがある。
今の日本では売春婦という呼び方をされる人はいないと思うが結局は呼び方の違いにしかすぎないのだろう。
サラの生きていた時代は女優という職業が恥ずかしいものであったというのは時代と共にここまで変わるものなのだと改めて気づかされた。
日本であっても昔なら男が台所に立つことは女の側から恥ずかしいものであった。人前に立つことが恥ずかしいもの。
男も女房と並んで歩くことが恥ずかしかったのだ。
照れ屋というか何というか。
この頃は羞恥心というものがなくなってきているのだろうか。

フランスにてサラの少し後の時代ならばキキがいた。
フジタやマン・レイなど当時モンパルナスに集まった多く芸術家に好んでモデルにされた人がいた。
しかし彼女は売春はしなかったのだ。
そこも二人の違いとして面白い。
女性として表に立つ女性と元々派手なのに結局は画面の中で裏に落ち着く女性。
サラの方がより芸術家的だったのだろうと思う。

二つ目
「彼女が豪華な棺の中で就寝したという逸話があるが、この棺は生前に手放し、彼女の埋葬には用いられなかった。」

そんな彼女の趣味の中で面白いものがある。
彼女は葬式や屍体に関わるものが大好きで、部屋には1ダースあまりの頭蓋骨が飾ってあったのだという。
wikiから引用したように、棺おけなども好んで自分の部屋に置き、棺の中に入り人を驚かせていたようである。
僕が気になるのは彼女はなぜそのようなことをしたのかということである。
ただの趣味といったらそうなのだが、人から驚かれる趣味というものはそれなりの興味をひくことがあるのだ。
僕が推測するに彼女は生きている中で死を味わい、そして生きることの甘美な甘さにやられていたのではないかと思う。
やってはいけないととをやる楽しみのようなものだ。
逆行療法みたいなもので人は一つの方向からではバランスがとれなくなってしまうのだ。
時代が進み文明が発達し都会になればなるほど死は自分から離れていく。
死とはテレビの向こうでの出来事。周りの出来事。自分には関係ないとまでは思わないけれど、死の実感や怖さはない。生きている実感さえも。

僕も写真を撮るときにそういうのはたまにある。
体に走る緊張感が神経を敏感にさせ感覚がどんどん鋭くなっていく感じがするのだ。
一度、その甘さにやられたら人は戻れないのかもしれない。

タバコや酒と違い、麻薬のように自分の体を蝕んでいく。
そんな味のしみた人間に僕が魅力を感じるのは僕もまた甘美な麻薬に心底蝕まれているせいだろうか。
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by masarumizushima | 2006-05-10 12:40

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