愛 天使の意味するもの

真っ青な空から落ちてくる一枚の白い羽根。
ふわりふわりと漂いながら、風に吹かれ、一人の男性の所まで飛んでくる。
これは、映画フォレスト・ガンプの冒頭のシーンである。



このシーンによって、ガンプは天使を意味しているということが分かる。

現実にもたまにそのように羽根が舞い降りてくることがある。
想像が好きな人にとっては、天使が近くに居るのかもしれないと思える出来事なのかもしれない。
しかしロマンチックさの欠片もない僕としては、どこの鳩の羽根だろうと思ってしまうが、
どう考えても前者の方が、夢があって良い。

ガンプが人間ではなく、なぜ天使なのか。
まずは別の映画に登場してくる天使と比べてみよう。
アメリカではクリスマスに必ず放送される(らしい)映画、「素晴らしき哉、人生!」に登場するクラレンスという天使がいる。


見た目はおじさんで、羽もない。パッと見は人間にしか見えない。いわゆる西洋絵画に登場してくるような、羽の生えた天使ではない。しかし彼は映画の中では天使として登場してくる。実際に奇跡も起こせる。
ガンプは奇跡も起こせなければ羽もない、映画の中では少しIQの低い普通の人間である。
ではなぜ彼が天使を意味しているかと言えば、僕は人に無償の愛を与えられるからだと思っている。

多くの人間は愛されることばかり考えていて、自分が人を愛することを考えていない。
そのようなことを心理学者のエーリッヒ・フロムは言っている。
詳しくは彼の著書「愛するということ」を読んでいただきたいのだが、ここでアマゾンの内容紹介の所だけ引用させてもらおう。

愛は技術であり、学ぶことができる――
私たち現代人は、愛に渇えつつも、現実にはエネルギーの大半を、
成功、威信、金、権力といった目標のために費やし、
愛する技術を学ぼうとはしない。

愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、
愛こそが現実の社会生活の中で、より幸福に生きるための最高の技術である。


人は孤独である。一人で生まれ、一人で死んでいく。そう言う人もいる。
愛によって生まれ、家族の愛に見守られながら死んでいく。それは孤独ではないかもしれない。
多くの場合、人は孤独を恐れている。狩猟民族の頃からしたら、集団から孤立するということは死を意味していたのかもしれない。人類が農耕を始めてからは尚の事そうなったかもしれない。
長い進化の過程で見たら、現代の核家族化し、独り暮らしの人が増えている現代の社会というのは本当に一瞬のことで、そう簡単に人は適応出来ない。
SNSなどで孤独を紛らわしてはいるが、一部ではfacebookは鬱発生装置とまで言われている。
色んなもので何とか気を紛らわせながら、孤独という人生をなんとかごまかしているのが人間なのかもしれない。
欲深い人間は、もっともっと沢山のものを欲しがり、愛についても求めることを優先していく。
自分が相手から何を与えてもらえるのか。そんなことばかり考え、表層だけを繕いながら、薄っぺらい価値観の元で社会に同調していく。
どうしても欲の捨てられない人間という生き物は、その欲から何かを欲していってしまう。

最初の映画の話に戻すと、天使とされている二人には共通点がある。
二人共、自分のことではなく、人の幸せのために生きているということだ。
フロムの言う、愛する技術という、人が学ばなければいけないものを生まれつき持っている
子供は可愛い。ただ存在するだけで愛される。知らない人の子供でも、笑顔で手を振られたら多くの人が幸せな気分になってしまう。それは彼らの存在が愛される為に存在し、本当的に愛してしまうような作りになっているのだろう。
ここでフロムの言葉を引用しよう。


 幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。

 成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。 

 未成熟な愛は「あなたが必要だからあなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているからあなたが必要だ」と言う。



あなたを愛しているからあなたが必要というのは、ガンプがジェニーに対して言っているのとまったく同じである。ジェニーが何をしても、ガンプは彼女を認め、彼女の為に何かしてあげたいと思っている。


 誰かを愛するというのは単なる激しい感情ではない。

 それは決意であり、決断であり、約束である。

 もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束はなんの根拠もないことになる。



ガンプはジェニーが病気で長く生きられないのを知っていながら、神に永遠の愛を誓います。
フロムが言うように、決意であり、決断であり、約束です。


 もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、

 その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。



ジェニーは自立した女性ではありませんでした。だからこそ、ジェニーにとって、ガンプとの関係は愛の関係にはなれなかったのでしょう。ジェニーにとってガンプは命の恩人であり、ジェニーは安らかに死を向かえることができました。
それでもガンプには何の後悔もありません。それは彼の知性に問題があるからだけではなく、彼が天使のような心を持ってるからだと言えるのではないでしょうか。

冒頭で書いた「素晴らしき哉、人生」に登場する主人公のジョージ・ベイリイも、自分の夢がある中、人々を助けるために自分の人生を使います。彼が窮地に陥った時、今まで彼に助けられて来た人たちは喜んで彼を助けます。
ガンプが幸せかどうか、それは分かりませんが、彼は決して不幸だと思っていないのではないでしょうか。人間であるジョージ・ベイリイは、天使の助けを借りて生きることに希望を見出します。そして今まで助けてきた人々の助けによって幸福になります。彼は人の為に生きることで、孤独にならずにすみました。

天使になることは出来ませんが、幸福になるために愛するための技術を学ぶことは、いつの時代どんな人にとっても必要なことのように思います。





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# by masarumizushima | 2017-10-10 10:18 | 映画

直感と合理性

本日、逃げ恥の最終回でした。
ダンスが話題になっていましたが、内容が面白かったのでダンスまで話題になったのでしょう。中身が面白くなければここまで話題になってなかったように思います。

一言にまとめるならば、契約結婚した二人が実際に結婚するという内容です。
お見合い結婚の現代版のような感じです。
最初から結末が分かるストーリーは基本的に嫌いなのですが、こういう分かりやすい恋愛コメディというのは、
純粋にエンターテイメントとして楽しめます。登場人物が良い人ばかりというのも、こういうドラマの特徴でしょうか。すこし現実性を持たせておいて、物語のほとんどは理想的な夢物語です。
そこがとても良いのでしょう。

このドラマのキモとして、二人の関係のプロセスをいかにして築いていくかといことがあるかと思います。
僕は第一話で、ちょっと突拍子もないような設定にどのようにして視聴者を物語の中に引き込むのかという所が気になりました。ミクリが、突発的に契約結婚の話を出します。これはミクリが直感的にヒラマサのことが気に入ったのだと思います。人の直感というものは面白く、一目惚れ同士で結婚したカップルが圧倒的に離婚率が低いそうです。
その点で、直感的にこの二人はうまくいくと、視聴者にとっても分かりやすい展開がおとずれます。

すったもんだがありまして、最終回、二人の関係のプロセスを再構築することになります。
今までの関係から、次の関係に発展する時、この二人のように論理的思考で関係性を再構築します。最初の感情だけの期間を通り越し、例えるならば恋人から夫婦になる時のように、様々な過程を構築し直して関係性を作り出します。

人は直感(感情)を大切にするのだけど、実はそれだけでは上手くいかないということです。
その中で面白いのは、人は論理性や統計学的なものを持ち出すと感情は置き去りにされるということです。ここにこのドラマの非現実性というか、夢物語なところになります。二人がなんとか再構築しようとする過程も、現実であればミクリの心の整理が出来ずに、まずはミクリの心の整理をするために感情的な方法でミクリの心を楽にしなければいけないでしょう。論理的に思える思考の奥にも、感情を元に論理的に進めている”つもり”になっていることが多いと思います。つまらないことで起こるケンカの多くは、それ以前の感情に原因があります。その感情がどこから来たのか人は間違えてしまうのです。
そして、それを間違えないミクリというのは、現代における女神像であり、理想的な女性というわけです。
(僕にとっては理想的ではないですが。)

安定を求める現代において、この二人が理想的な男性であり、女性であると言えます。
少し前の理想的なカップルとして、ゆりちゃんと風見さんが登場します。

今の若者は正社員になりたくてもなれず、派遣やバイトの人が多いので、不安を抱えていきています。だからこそ安定型思考になっていて、僕ら世代を含めた若者世代にとって、ひらまさは真面目で仕事が出来て収入も高くて、浮気の気配もまったくない男であり、ミクリも真面目で頭が良くて家事も完璧にこなせるけど、ちょっとの仕事ならばキチンとこなせる社会性のある女性というのは、男女どちらから見ても理想的であると言えるのではないでしょうか。

ゆりちゃんは、男女雇用機会均等法以降で、男性に負けないように頑張って仕事をしたばかりに結婚するタイミングを逃しました。多くの女性は自分がガンバレば頑張るほど、それ以上のキャリアだったり能力だったり、自分がリスペクト出来る相手を選びますから、仕事を自分の居場所にしてしまった女性にとっては、自分以上の人となると自分よりも仕事が出来て収入の多い人じゃないといけないので、必然的に恋愛対象になる男性の数は少なくなります。ましてや美人となったら、自分より上の相手を求めようと思ったら本当に数が少なくなるように思います。
一般的に女性はそのくらい体面や世間体を気にする生き物だと思います。

それが現代の理想とされるミクリは、世間体を気にすることなくマイペースに自分の行き方を選んでいます。
バリバリのキャリアウーマンであるゆりちゃんとは違う強さを持っています。

ドラマを見始めた当初、ぼくの予想としては、ヒラマサに感情移入してヒラマサになりたいと思うかなと思いました。しかし現在はミクリになりたいと思っています。ある意味、神になりたいと言っているのと変わらない願望です。

ドラマにハマりすぎる不幸というのは、ドラマの中でのことどこか現実でも求めてしまうという所にある気がします。そんなことあり得ないと思っていても、どこか期待しているのが人間というものです。
現実性がないからこそ楽しめる夢物語を、現実に当て込むことなく、皆が現実を再構築する過程を楽しんで欲しい。そんなことを思いつつ、幸せな二人を見て楽しい気分で年末がおくれてそうです。
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# by masarumizushima | 2016-12-21 09:20 | 日記

個展:RePhotography

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今回の作品は写真製版の銅版画です。

近年、私は影を使って人や建物を撮ってきました。
影の中でも、シルエットを撮ることで、つまり撮っている対象を特定しないという手法で、人間や建物という象徴を撮るようにしました。それによって、この作品を見るそれぞれの人が、各自が持つ人間というイメージを膨らませる事ができます。これはシンプルなシルエットにすぎないですが、シルエットでなければ表現出来ないことだと思っています。シルエットという象徴化されたものに些細に出てくる被写体の独自性の面白さや、写真という現実に存在するものしか撮れないという点の面白さを追求しています。
影の持っている物事を象徴化して人の想像力を想起させる力というのを使い、人と人の間に生まれる記憶や感情の再構築をしようと思っています。

日程: 7月10日〜22日

時間: 13時〜19時半 (最終日は18時半)定休:水曜
オープニングパーティー 7月12日19時~21時

Daphnis et le cocon
ダフニス・エ・ル・ココン
(spacemoth 4F)
神戸市中央区栄町通り 3-1-7
栄町ビルディング 4F

www.spacemoth.org
078 392 5020


水島優
新潟生まれ。
2004年からパリを中心に活動。
東京写真文化館チャレンジ入選。米、カーメル写真美術館国際公募展入選。第三十二回日本広告写真家協会公募展入選。主に歴史的、哲学的なものから題材を得、その視覚化に努める。


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トークショーは下記の日程です。

カフェトーク@C.A.Pカフェ内
「写真とマテリアリティ」
水島 優(アーティスト)×唄 邦弘(神戸大学大学院)
司会 太田 賢佑
7月18日(金) 18:00~19:30頃
参加費:無料 ※要1ドリンクオーダー
内容:
「7月10日から22日の期間、ダフニス・エ・ル・ココンで開催されている展覧会「水島優 展 RePhotograph」では、撮影されたパリのさまざまな風景に版画の技法によってさらに手が加えられて表現された作品群が展示されています。本トー クでは、水島氏にそれらの作品群の制作プロセスについてお話して頂き、「もの(マテリアル)」としての写真、および写真と版画の表現方法の違いについて皆 様と一緒に考えてみたいと思います」

芸術と計画会議(C.A.P.)
〒650-0003
神戸市中央区山本通3-19-8
神戸市立海外移住と文化の交流センター内

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ワークショップ

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現代写真実験室 Vol.1 都市
ゲスト 唄 邦弘

神戸の都市を撮影することを通して、参加者の撮影技術と写真を使った新しい表現方法を学んでいく。

第一回 撮影しながら実験 7月19日 13時〜15時
第二回 プリントを使った実験 7月20日 13時〜15時
先約10名 1日2500円 両日4000円
マニュアル設定の出来るカメラをお持ち下さい。携帯も可。

雨天の場合や、具体的な場所については、
参加者の皆様に直接ご連絡させていただきます。

※ 主催者の都合により、
内容が変更になる場合があります。

詳しくはフェイスブックで「現代写真実験室」を検索して下さい。
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# by masarumizushima | 2014-07-09 01:27 | NEWS

あの涙から30年

5月31日に最後の日を迎えた国立競技場。

東京オリンピックに向けて解体が始まり、日本の行政らしいぐだぐだな決定でヘルメットみたいな
競技場が作られるようだ。
伊東豊雄が代案を出したりしているが、誰に決定権もないままこのまま元のデザインからどんどんダサくなっていくような気がしている。

僕自身、国立競技場にも行ったことがないので思い入れもない。

たまたま見ていたニュース番組の中で、今まで知ることの出来なかったこんなエピソードを見て、涙してしまった。
建物の解体と共に忘れられていく運命にあるこのような美しいエピソードを、この機会にしっかり覚えておきたい。そう強く思った。





最後の国立競技場での早明戦

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# by masarumizushima | 2014-06-02 14:22 | NEWS

D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?

久しぶりに小説を読んだ。
以前からファンである有吉玉青さんの「ぼくらはきっとすごい大人になる」を本屋で見つけ、つい手にとってしまったので、その勢いのまま電車の中ですぐに読み終わってしまった。
有吉さんの短編が特に好きで、短いからこそ、すっと流れていく心の揺れ動きが僕の心をさらりとなでていく。

日本に戻ってきて最初になんとなくこの本を選んだのは、友人が「30だし若々しいことをしよう」という連絡をくれたのがきっかけになったからだ。
記憶というのは不思議なもので、場所によってそれぞれに記憶が蓄積されているような気がする。
東京で10年以上住んでいる友人達にとって10年前というのはかなり前のようだけれども、ぼくにとってはついこの間のような気がする。僕にとって10年前のパリは遠い昔のようで、12年前の東京というのはつい最近のような気がしている。
さすがに高校生だったころがつい最近のことのようだとまでは思わないが、なんとも不思議な気分にさせられている。

滞在一週間目は観光客のような気分で東京や日本を見れているのだが、二週間も経つと現実味を帯びてきてギャップに苦しむことも出てくる。
祖国である日本で、しかも20年も住んでいた土地でここまでギャップを感じることになるとは予想もしていなかったが、ラーメンをすすって食べれなくなっている時点で気付くべきだったのかもしれない。

僕は幼い頃に大人になる自分をまったく想像出来なかった。きっとみんなそうだろう。あんな大人にはなりたくないと思っていた大人に、今の子供から見られているかもしれない。
いつの間にか年齢を重ね、いつの間にか大人の仲間入りをしている。
それは一体いつからなんだろう。

そんなことを思いながらこの小説を読んだ。
小学生が主人公の短編6編。
この小説を読んで、かつての自分の姿を思い出した。
それと同時に、すぎてしまった時間の多さにも気付かされた。

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」というゴーギャンの絵を思い出す。 ゴーギャンはこの絵を描いた後にゴーギャンは自殺未遂をしてるわけだが、どこへ行くのかとい未来のことを考える上で、年齢の差というのは今まで思っていた以上に大きいように思う。

ナポレオンは「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」と言っていますが、未来のことを語り続けるというのは狂人にしか出来ないのだろう。
そう思うと自分で自分のことを「ごく一般的な普通の人」と思っているので、生きるか死ぬか紙一重の狂いというところで生きれる自信がないので、普通の人生をこの先も送っていくような気がしてる。

小説の話に戻ると、小学生にとって未来というのは根拠なく明るいものであるし、そうあるべきものである。
しかし子供は大人が思っている以上に大人で、そしてちゃんと子供である。
その大人と子供の二面性のバランスが、年齢を重ねた今では大人の部分が多くなっただけで、未だに子供の面も沢山ある。そしてそのままおじいちゃんになって亡くなるのだろう。
自分で自覚することなくいつの間にか変わってしまったバランスを、この小説を読むことで思い出し、電車の中でぽろりと涙してしまった。

それは単純に感動したとかそんなことではなくて、いつの間にか忘れてしまっていた僕の心に爽やかな風が通っていったからだろう。
春の気持ちのいい季節に、こんな小説に出会えたことをとても嬉しく感じている。
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# by masarumizushima | 2014-04-29 04:10 |

世界の終わりに向けて〜恋して死にたい〜

1999年4月、僕は高校生になった。
ノストラダムスの大予言を7月に控え、そんな予言が当たってたまるかと内心バカにしていた。
でもどこか頭の片隅から抜けず、世界が終わるとしたらどういう風にその時を迎えるか考えていた。

「世界最後の日に何をして過ごすか。」「世界最後の日に何を食べるか」
そんなことが話題に上がっていたりした。
誰も本気で世界の終わりを信じているわけではないが、なんとなく世界の終わりについて考えていた。

世紀末の不安というのは今ではすっかり影をひそめ、失われた10年どころか20年という話になっている。
一体何が終わり、何が始まり、何が失われたというのだろうか。

その何かが失われる前、高校生の僕にとってなんとなく好きだったドラマをyoutubeで見つけた。

to Heart 〜恋して死にたい〜


プロボクサーを目指す青年・時枝ユウジ(演・堂本剛)と彼に思いを寄せている少女・三浦透子(演・深田恭子)の純愛を片思いの切なさを通して二人の関係を絶妙に描いていく。

世界が終わる前に、恋して死にたいという分かりやすい青春恋愛ドラマである。
これが当時の僕にとって、とても面白いわけではないのに、時代的にしっくりくるドラマだった。
僕も学生が終わったら、こんなチャラい生活を送りたいと思わせるようなドラマだった。
ちなみに当時は深田恭子の良さが全くもって分からず、最近の深田恭子は綺麗になって色気も出てきたなと思い、丁度このドラマのことを思い出していた。

恋して死にたいという、死を連想させながらも生きることの良さを感じさせるのはどこかゴンドラの唄に通じる所がある。
命短し恋せよ乙女というフレーズに心あたりがある人は多いと思う。



1914年に始まった世界大戦の翌年にあたる1915年にゴンドラの唄は発表された。
黒澤明監督の「生きる」にも使われているので、大正の歌にしては有名である。
世界的な不安を前に、いかにして生きるのかというのは戦争であれノストラダムスであれ、深刻さは違うが似たような所があるのではないだろうか。


現在の方がより深刻な問題が浮かび上がっているような気がする。
大正時代と世紀末のなんとなくある不安の前提には、時代の変化によるどこか希望のようなものが見えていたように思える。
昭和になったばかりの昭和2年、芥川龍之介は「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」で自殺した。

なんとなくある不安。
なんとなくある希望。

先進国にとっては不景気な現在の状況はなんとなくではなく確実な不安であるが、発展途上国にとってはなんとなくある希望の状況である。

たまにはくだらない青春ドラマでも見て、なんとなく幸福な気分になるのも悪くない。
そんなことを思いつつ、流れた時の多さに驚いている。
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# by masarumizushima | 2013-08-28 03:55 | 日記

愛の現象(ピアノ×舞踏×写真)

今月16 日に奈良で「ムジーク フェスト なら」に参加します。

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2013年6月16日

愛の現象(ピアノ×舞踏×写真)

ピアノ/東 桂子
舞踏/田中 誠司
写真/水島 優

愛とは何でしょうか?

それは目で見て、耳で聴き、手で触れることができるものなのでしょうか?
未だ私たちは、愛が何であるかが分かりません。

この舞台の第一部では、音楽と絵画の印象派が捉えた愛と自然を、写真と音で表してみます。
第二部では、私たちが知っている、あるいは信じたいと願う愛の不思議に、身体と音で正直に挑みます。

異なる個性と表現手段をもった三人が、芸術の普遍的テーマ「愛」に真っ向から取り組みます。

※入場無料ですが、整理券が必要です。
整理券は下記サイトにて申し込めます。
先着順、お一人様2枚までです。
よろしくお願いします。
http://www.naraken.com/musik/event/16/event18.html

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僕は今回、写真のスライドショーのようなものと映像でコラボレーションします。
クラシック音楽とのコラボレーションは初めてですが、結構面白いことになると思います。
普段の音楽コンサートでは見れないものだと思うので、是非このチャンスに足をお運び下さい。
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# by masarumizushima | 2013-06-01 08:12 | NEWS

10年目

季節は卒業の時期、日本では早めの桜が咲いたそうで、まもなく新学期が始まろうとしている今日。
9年前、冬時間が終った次の日、僕は初めての海外旅行でパリに来て、 今日でパリ生活10年目に突入する。

20歳だった僕は、何も知らず、何も知らないことが強みとなって前へ前へと進んでいた。いつも人より失敗して、数多くの失敗を重ねることでゆっくりながら歩んできた。失敗することの怖さも知らず、何でもやれば何とかなるという根拠のない自信を持って旅立った。
かつて考えた10年後の自分とは全然違う人生を歩んでいるし、かつての価値観でいえば上手くいってない人生かもしれないが、当時の僕が想像していた以上に人生の喜びも悲しみも知り、人生がより深いものになってきている。
人は環境によって影響を受け、考え方も行き方もいつの間にか以前とはまったく違っている。人は自分自信が変化していることを自覚することは稀で、変化することも自分で選んでいるようだが、人が選べるのは環境であって、自分を変化させることは思っている以上に難しい。
僕もパリに来てから、自分で思っていた以上にフランスやパリの影響を受けている。いつの間にか健康志向になり、食べることが人生の喜びになっているし、運動することも喜びの一つになっている。日本に居た頃は一つのことを極めることにしか目がいっていなかったが、現在では多様な中から優先順位を決めている。

年々、大切なものが増えてきて、それによって人生が複雑になっていっているのを肌で感じるし、この先それがどんどん重たくなっていくのは容易に想像がつく。失うことの恐ろしさも、実体験を通して味わってきている。
人は必ず死ぬものだと頭で分かっていながら、感情はそうはいかない。現実味のない状態では死は当たり前で、受け入れるしかないものなんだから割り切るしかないと思っていても、そう簡単に悲しみを取り払うことは出来ない。
現在では、多くの人は病院で生まれ、そして病院で亡くなっていく。人の生と死がより遠くなり、SNSによって知らされる死も現実から遠ざかっていく。亡くなったことを知らない人はいつまでも生きているように思ってしまう。いつか会おうと思っていた人にも、もう会うことが出来ない。その人を大切に想えば想うほど辛く悲しいわけで、大切に想える人がいたということはとても喜ばしいことだったように思う。だから悲しむことは悪くないし、悲しみをうちに秘めて生きる人生も悪くないように思う。
この数年でそのくらい人生が生々しいものになった。そして、どんどん複雑になっていく人生を内包しながら、同時にシンプルになっていくという一見矛盾した方向にもいっていることに気付く。何をしようと時間は止まることなく動きつづけ、人も少しずつ善悪問わずに変化していく。
これから先の未来にはきっと悲しいこともあるし、きっと楽しいこともある。明るい未来も暗い未来も存在し、そのどちらかを見て未来を悲観視したり楽観視しているわけだが、確実に言えることは割合の問題で、100%楽しい未来も100%暗い未来も存在しない。
悲しさを受け止めながら、その割合を少しでも変化させて明るい未来への一歩を出し続けることが、この先も人生にも必要なことだと感じている。

今までは出された答えにいかに誠実に努力していくかということが大事だったが、これからは自分が仮定した答えに対して開拓者にように一歩一歩を踏み出していかなければいけない。30代を迎えるにあたって、その一歩を出し続けることの重要さを身にしみて味わっている。

すべて分かった上で、譲れないものは譲れないと頑固に変人になる道もありだし、人の為になるようバランスよく人を喜ばせるような道もありだと思う。やっとスタートに立とうとしている感じがしているし、この先の道はいくらでも広がっている。

「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意思によるものである。気分というものは、正確に言えばいつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて意思と自己克服によるものなのだ」
アラン

冬を死に例えるなら、春は再生である。
季節の春と共に、心もリフレッシュして初心を思い出し、踏み出す一歩をなるべく大きなものにしようと思う。
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# by masarumizushima | 2013-03-26 09:00 | 日記

昔の恋

昨晩、テニスの帰りに深夜の静かになった街を自転車で走っていた。
パリをほとんど縦断するように家へ向かう。

夜のパリはとても美しい。
暗闇の中でオレンジ色に照らされた家々が輝いて見える。
古くからある街並に住んでいる息吹が感じられる。
そんな街を風になったような気持ちで自転車で走るのは本当に気持ちが良い。
セーヌ川沿いを走ると、街灯の光がまるで星空の中を進んでいるだ。

自転車で走りながらとても懐かしい道を見つけた。
僕の好きな映画で撮影に使われている通りで、頻繁にそこを通っているわけではないのに昨晩は急にその映画について思い出した。

その映画はBefore Sunset



主演のジュリー・デルピーの新しい映画が公開されたから思い出したのかもしれない。

大好きな映画なので内容に触れたくないのだけど、パリで9年振りに会った男女の話。
この映画が公開されたのは僕がパリに来た年で、映画のポスターが沢山貼ってあったのを今でも覚えている。
僕のパリ生活の始まりは、魔女の宅急便と、このBefore sunsetなのかもしれない。

そんな2004年から既に8年が経っている。
先程、久しぶりにこの映画を見なおしたのだが、映画の中で32歳の設定になっている二人に以前見た時よりももっと共感出来るところがあった。
良い作品は時間の経過によってまた違った見方や違った感動があるものである。
初めて見たときは32歳の二人がずっと大人に感じて、32歳なんてずっと先のことだと思っていた。前作の映画から実際に9年経ってから作られたという映画の時間の中に、僕もやっと入れたような気がした。

時間というのはいつの間にか過ぎてしまって、気付いたら莫大な時間が流れてしまっている。
先日、母が「ついこの間まで20歳だった気がする」と言っていた。
きっとそんなものなんだろう。

過去は近いようで遠い、遠いようで近い。
映画の中で、セリーヌは小説を読んだことで今の自分がドライで過去の自分が情熱的だったことを思い出してしまって悲しいというような台詞があった。

素晴らしい出来事は記憶の中で輝き続ける。
でもそれが現実に戻って来た時、美化された記憶には敵わない。
過去に囚われると現在を生きていくことは出来ない。
しかし、美しい過去には魅力がある。

前作で23歳だった二人のフレッシュな魅力は時間がたった今でも色褪せない。


字幕なし


2つの映画共に会話だけの映画。
シンプルで単純だが、だからこそ良い。
余計な音楽も、余計な演出もない。
だからこそ素晴らしい。

昨日、夜の街を走りながら、過ぎてしまった時間と積み重ねた時間を考えた。
いつの間にかこの土地にも慣れ親しんでしまった。

次はどこに行くかわからないが、僕にとってパリは永遠の恋人になることだろう。
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# by masarumizushima | 2012-05-20 07:53 | 日記

都市と記憶

夜の高速道路を南仏の方からパリまでずっと走らせていくと、暗い夜空がオレンジの光で徐々に明るくなっていく。その光の中心がフランスの首都であるパリであり、ヨーロッパの中心だ。
光り輝く大都市に車が向かっていく途中で、この光は人々の光の集合体なのだと気付かされる。

パリに人が集まりだしたのは、そんなに古いことではない。
ゴシック建築が建設される頃に、大幅に人口が増加したのだ。その理由の一つは、それまでの農村でとれる作物が減り、狩猟できる動物も減ってきた為に仕事を求めていたからであった。

都市が形成されるにあたって、建物だけに目が囚われがちだが、都市というのは人の集合体である。個人から家族、家族から町、街から都市になり、そして国家へと形を大きくしていくが、人の集まりによって作られていることには変わりがない。
人というのは物質的な人というのももちろんなのだが、人の思想が街を形成しているのではないだろうか。
街を見れば人が分かるように、人々の考え方がそのまま街を作っている。

パリではナポレオン三世の時代に大きな都市改造があった。それによって道が広められ、治安は向上し、あれだけの土地に効率的に人が住めるようになったのだ。それまで、電灯もガス灯もない夜道では犯罪が横溢し、道の細さによって心理的にそれを一層悪化させていた。犯罪というのはいつの時代も場所や国を問わず、暗い所で頻繁に行われてしまうものらしい。
時代によって変化していく都市もそうだが、新しく作られてる街にも作られる時代の風潮や思想が出てくる。そういった意味で、その当時に莫大な人口を抱えながら、清潔さと活気を持ち合わせた江戸は都市の成功例の一つではないだろうか。
その点、同じ場所でも東京と呼んだ際には大きな違いがある。明治以降に作られた東京という思想の塊は、それまでの歴史を踏襲することなしに近代都市を作り上げた。その原因の一つが、文明開化もそうだが、それよりも東京大空襲ではないかと僕は思っている。

人の記憶は変化するものである。
5歳児の時の記憶は、その後に親に話されたことを勝手に映像化し創り上げた記憶映像であることも多い。おばちゃんの証言が裁判で信憑性が欠けるとされることも多いように、記憶は不確かで変化するものなのである。
歴史的な概念が存在するようになったのは実はここ百数年の話で、それまでは歴史という概念が今のような形になっていなかった。それまでの歴史も人間の記憶と同じように、曖昧で不確なものだったようである。

人がその不確かな記憶を蘇らせる要因はいくつかある。
よく言うように、香りがその当時の光景を思い出させてくれることもあるし、かつて見た風景を目前にして幼少時期の記憶が蘇ってくることがある。人の記憶を呼び起こす装置として存在する全ての現象は、触れた瞬間に科学反応を起こして僕らの脳に直接呼びかけてくる。

都市というのは建物の集合体というだけではなく、同時に人の記憶の集合体だ。都市が破壊されることは同時に記憶を失い、歴史も薄らいでいくことなのだ。現に広島出身の友人は、昔の話を聞いても、原爆以前の話が出てこないと言っている。原爆で破壊された街や、亡くなってしまった人と同時に、感覚的な歴史概念も同時に失ってしまったのだ。

マリー・ローランサンの詩の一節で、「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」というのがあるが、死んでも記憶には残るが、忘れられるというのは存在そのものがなくなったに等しいのだ。

古いものが壊され、どんどん新しい道路や建物が作られて変わりゆく都市を見ていると、便利な反面で記憶を呼び起こす装置としての街と記憶を同時に失うんではないかという懸念が生まれる。
誇りというのは歴史や文化から得てもいいのではないか。

久しぶりに日本に帰ってそんなことを考えていた。
ぼくらが生きている現在よりも長いスパンで時間を捉えて学ぶことは多いように思う。

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この文章は今度展示する作品を作る前に書いたもので、日本滞在時に電車の中でさらっと書いたものです。
今よりも随分と抽象的に考えていて、この時に考えていたのを寝かせて作品化しました。
形にするまでに何年もかかり思った以上に遠回りしました。

このシリーズでの都市の形成と記憶の問題や、前のシリーズでの人間の不在と実在の問題は、去年の震災以降は特に繊細な問題になっているのと同時にとても大切なことなのではないかと思わされています。
人が本来持っているもの、大切にしているもの、それを見失いかけているものがあるのではないでしょうか。
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# by masarumizushima | 2012-04-24 06:53 | 日記

文字と言葉


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