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同一性障害

今日も極私的に、いつも以上におかしい内容を書くつもりなのでグロイのが苦手な人や「人のオナニーなんか見てられるかっ!」と思う人はここで止めて下さい。
面白ネタはありませんよ。最後まで読んでも良い事なんて期待しないで下さい。
今日の内容はグロイ事や気持ち悪いことにも触れるので恐がりな人や心臓の悪い人は本当に見ないで下さい!!!
じゃあ書くなってね。。。

元々は一つの記事をよんだことから始まった。

身体完全同一性障害

身体完全同一性障害(2)

僕は久しぶりにぞくぞくとした寒気を覚えた。
こんなに怖くなったのは久しぶりだ。
同一性障害といったら一般的に知られているのは性同一性障害や解離性同一性障害(多重人格)だ。


同一性障害ということだが、「同一性」に障害があるということで、ではその同一性とは何かというと下記のようなことである。


○同一性(どういつせい)とは、あるものがそれ自身ないしは他のものと等しくある性質をいう。前者を特に自己同一性という。同一性は哲学上重要な概念のひとつであり、同一性によって、あるものは存在ないし定在として把握される、あるいは定立される。
心理学や精神医学では人格の連続性、すなわち時や場所によらずに自分は自分であると確信できる連続した自我状態を指す。通常は1つの身体につき1つの同一性が矛盾しない状態で存在するが、これが損なわれる精神疾患に性同一性障害(身体の性と同一性が矛盾する疾患)や解離性同一性障害(1つの身体に複数の同一性が存在する疾患)などがある。


ちなみに性同一性障害と解離性同一性障害について少し詳しく述べるならばこうである。


○性同一性障害(せいどういつせいしょうがい; Gender Identity Disorder)とは、精神疾患の一つであり、精神的には身体的性別とは反対の性に属するとした方が自然であるような状態の事である。
性同一性障害

○解離性同一性障害(かいりせいどういつせいしょうがい)(解離性を主体とする精神疾患)は精神疾患の一つ。(特に幼児期に)性的虐待などの強い心的外傷から逃れようとした結果、自我の同一性が損なわれる疾患のことを指す。1人の人間に複数の人格状態(以下「人格」)が生じるため、以前は多重人格(障害)と呼ばれていた。
解離性同一性障害

さて、本題の身体完全同一性障害なのだが記事を読んでみてもらえたら分かるように「だるま」と呼ばれる人の事で、自分の体に手足があることに不完全さを感じ、手足がなくなることに完全さを感じるという人である。


だるまについて

だるま女

中国奥地の達者(こちらは見世物になるもの)

どちらも都市伝説なので何とも言えないがとても怖い話である。

ここから自分の話をさせてもらうが、形は違っても同一性障害とまではいかなくても、自己同一性に疑問がわくことはないだろうか。
例えば足が痺れた時、痺れているという感覚はあるがそれが自分の足だという感覚はないのではないか。
そこが麻痺した時、自分の体の一部のはずがとてもそうとは思えない感覚になることがある。
それが肥大すれば自分にそれがあることが不自然に思えることもあるのではないか。
僕らは鏡をいうものを見る。毎日見る人が多いだろうが、それによって自分自身を認識し、周りの人間を呼ばれている物と一緒だという感覚をいだく。しかし、鏡がなければ自分が一緒だと言える確証はない。自分で自分を触ってようやく周りの人と一緒だと思えるかもしれない。しかし、もしかしたら肌の色が違うかもしれない。本当には精巧なロボットかもしれない。しかしそれを確かめる手段がないとしたらどうだろう。今ままでの記憶が人に作られ埋め込まれた記憶だとしたら。そう考え始めるとキリがないが、確かなものなんてないのかもしれない。
だから体に不自然さを感じるということが、「不自然」だとは言い切れない。要は認識の問題なのだ。
その中で自分の性別に不自然さを感じたり、手足があることに不自然さを感じたりするのは精神疾患であるが、一般的に普通に暮している僕らと違う人間ではないのだ。同じ人間なのだ。
精神的に違うというだけで精神病だと言えばそうかもしれないが、僕ら現代を生きている人間はほとんどの人が何かしら精神的な問題を抱えているわけで、すべての人間が精神病患者とも言えるのではないだろうか。
不自然なことを自然だと思い込み、いわゆる「普通」という言葉で自然だと思い込む。それは常識とも言い換えることが出来、形ないものに形を与えようとし、形づけたと思い込む。または思い込まされる。
例を出すならば友人のインド人に言わせたら日本やフランスのような晩婚化というのは信じられないらしい。彼にとっては24くらいでも結婚が遅いそうだ。それは彼の常識で僕のように日本で生まれ育った人間にとっては24で晩婚というのに違和感を覚える。常識とはそんなものだ。特に島国で生まれ育ったからそういうことに驚きを覚えるというのもあるだろう。

普通・変、自然・不自然、常識・非常識。
認識の違いでこうも変わるものもない。
レオナルド・ダ・ヴィンチも人間を解剖してイタリアを追われたわけで、彼にとって絵を書くために人間の体を知り尽くそうというのは自然な努力であるし、周りから見たら人間の体を解剖したおかしい不自然な人にしか映らないのである。
人の脳みそこそ分からないものはない。直接見れたならば分かるだろうが、考えてることなんていうのは形には現れない不確かなものである。
昔、NHKで「メビウスの壷」というドラマがあった。
発達したヴァーチャルゲームの話で、脳に直接映像を送り別の世界に行くことが出来る。しかし途中からゲームの中なのか現実なのか分からなくなってくる。好きではないので一作目しか見てないがマトリックスもそうだった。
僕らが確かだと思っているものが不確かになる。

僕も実を言えば感覚が不確かになることがある。
目の前の対象がもの凄く大きいものに感じたり、もの凄く小さいもの感じたり、自分の体すべてがまるで自分の体ではなく、エイリアンのような「私」が「自分」の体を乗っ取っているような感覚。脳が体を乗っ取っている感覚。自分が自分でなくなる。確かなものがなくなる。それは夢でもないし、歪んだ現実だ。
夢か現実か分からなくなるということはないのに、こういう現実を認識出来ないということがごくたまにある。
僕はそれに疑問を持っている。毎日、積み重なって行く記憶だけが僕が僕だと納得させる。
これも一種、軽度の同一性障害なのだろうか。

不確かにならなくても、疑問を持つことはないだろうか。
自分は誰なのかという疑問は誰でもあるかと思う。なかったら僕だけだろうか。いや、そんなことはないだろう。自分が何処から来て、何者なのかという疑問は思春期や今でもあるだろう。。
原っぱで寝そべって空を見ている時、自分は自分の肉体を忘れ感覚の中に生き、空を見ているだけの自分という存在だけのものになれ、ふとした時に肉体の感覚が戻る。そして空を見ている存在から「私」に戻る。
他人との関わりの中で自分を再確認することがある。自分ではA型に近いB型だと思っていたが、周りからは自分勝手なB型の典型としか思われていなかった。自分がB型の典型と言われる理由に気付いたのもホンの最近の話だ。22年も生きてきてやっと自覚したのだ。まったくバカな話だが自分ほど分からないものはない。他人ならば自分の中でこういう人物だと決めつけることは容易い。人間には多面性があるが、それを踏まえたうえで或る程度こういう人物だというのは誰でも決めつけてしまうものではないだろうか。
自分の認識している自分ほどあやふやなものはなくて、他人が認識している自分ほど身勝手なものはない。どれが本当の自分かと言われたら、どれも本当の自分なのではないかと思う。他人が認識している自分のカケラ。自分が認識しているのも自分のカケラ。
自分というジグソーパズルを作り上げるには自分の持っているピースではとても足りないのだ。
僕は結局この不確かな自分と付き合い続けるしかないようだ。
こういうどこかヴァーチャル世界に生きている感覚というのは僕がゲーム脳だということなのだろうか。今ではメール脳もあるそうだが、こうやって病人にくくられるならば僕はとっくに精神病だろう。
日本では精神科に行ったら症状がヒドい一般社会に適合出来ないという見方もされるだろうが、ここフランスでは精神科が身近な存在だ。それは良い事だと思う。
それならば僕も「普通」の人間として生きられるというものだ。


少し長かったが、最初のリンクなどを読んでしまい気分が悪くなった人がいたらごめんなさい。
見るなと言われても見てしまうのが人の常。
それを知りながら書いてしまう僕は罪深い。
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by masarumizushima | 2006-08-09 07:38

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