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アモーレ!


アモーレって響きが「恋しろ!」って言っているように聞こえる。


アモーレと言えば女性遍歴の凄さで有名なカサノバを思い出してしまうのだが、ついでにwikipediaで調べたら興味ある書き込みがあった。

『カサノヴァがその華やかな恋愛遍歴を享受した理由の一つは、彼が多くの同時代18世紀人と異なり、彼自身の快楽と同時に、その交際する異性の側の快楽に常に注意を払っていたことにある。彼は誘惑者としてばかりでなく、誘惑されることにも喜びを見出しており、また多くの美女を同時に愛し、激しい恋愛のときが終わったずっと後に至るまで、それら異性を人間として同等の存在として尊敬し、親交関係を維持した。彼はまた数人の男性ともベッドを共にし、また異性装にも生涯を通じて関心をもっていた。性病とギャンブルもまた彼の人生と不可分だった。ギャンブルは異性の次に彼が情熱を傾けたものであり、さまざまのものに賭け事を行い、ある時は勝ちまたある時は全財産をすったりした。パリで彼は国営の宝くじを創始してひと財産を成したが、絹織物工場への投資が失敗して全てを失っている。』

カサノバが実際には何をしていた人かというのは、同じくwikipediaから引用させてもらう。

「カサノヴァは時にビジネスマン、外交官、スパイ、政治家、哲学者、魔術師、20作以上の著作をもつ作家そしてドレスデン、ジェノヴァ、トリエステ、マドリッドで作品が上演される劇作家として立ち働いたが、その生涯の殆どにおいて、単一の「生業」を持たず当意即妙のウィット、幸運、社交上の魅力、そしてその対価として人々が提供する金銭でもって生活していた。」


つい先日、本物のボヘミアン集団を初めて見たのだがパリに住んでいるホームレスなどとは違い、若く元気で生き生きとしていた。妖精のような服を着ていたり、なんだか楽しそう魅力的である。スナフキンも実際にいたらあんな感じになってしまうのだろう。他人に危害を加える気は一切ないようでこちらも安心して見ていられる。社会的弱者でありながら精神的には弱者ではないというのはとても重要な事に思われる。
しかし、そのボヘミアンの集団にしてもカサノバにしても、自由の精神というのは他人の自由の権利を奪わないからこそ自分の自由を行使出来るわけで、それ相当の代償を支払わなければいけないというのを改めて感じさせられたわけだ。
光というのは強ければ強いほど、闇も深く濃くなっていく。闇が強ければ光も強くなる。それは時代性にも言えることかもしれない。どこかで光が照らされているのは他の部分にも闇が存在するということだろう。

古代ローマの人間にも古代エジプトの人間にも、その他多くの古代都市や現代の田舎の国にも行った事がないが歴史上の人間が時代や場所が違うだけで同じ人間だとはなかなか認識出来ない。その場所に行って肌で感じてみて初めて脳内での事が指先まで届くような感じがする。だから人は旅行するのだろうか。知りたいから。
僕は旅行嫌い(面倒くさがりなだけ)だが、そういう感覚の認識においては随分と鈍いのかもしれない。
酒蔵に行くことによって、その後は酒の味と一緒に倉のおかれている状況を情報として一緒に飲む事が出来る。それはワイン畑に行くのも同じ。そういった楽しみ方もあるのかもしれない。コンセプチュアルアートの良さもそうかもしれない。そこには情報という落とし穴もあるのだが、それは僕の好みの問題で善し悪しの問題ではないのでそこらへんに置いておこう。

サド侯爵の凄さは実際には大した事をしていない中での、人間の妄想の凄さである。カサノバはある意味で普通である。人間の動物的部分に忠実である。そして早大の何とかサークルのようではなく、気品と知識に満ち、誠実であると言い切れるのではないだろうか。
人は意味のない行動というのは出来ないものである。何かをやらされるのではなく自ら前線に立って行うというのは理由が必要である。ましてや悪徳だと社会的に思わざるおえない行為というのは本人も無茶苦茶なバカではなければ自ら気づいてしまうものだ。それでもなおも実行に移すには自己を正当化する必要がある。誰もが自分を正当化するが、それよりも一層の強さが必要だ。
だからこそ、一つの事で周りよりも抜きに出た人というのはその方向性を変えるだけで別の事でも突出するのである。天才が多くの事で業績を残すのは必然なのかもしれない。
僕は天才否定派だが、それは自分が天才ではないと気づいているからだろう。そうやって自ら翼をもぐ行為というのは愚かでしかないとも思っているだが、脳内で悪魔と天使が戦っている。

そういう突出した人というのは差別される。周りからは区別されているのだが、差別そして今で言うといじめ、過去においては魔女狩りや村八分になりかねない。

社会的少数者について、またwikipediaの記事が面白かったのですが長いので興味のある人は読んでみて下さい。
社会的少数者
外山恒一が少数派の諸君と言っていたがこのような少数派を代表しようしていたとしたら、彼の言っていた事はもっともだと思われる部分が沢山ある。


フェリーニのカサノバにおいて、直接的な性描写を排除しつつもあそこまで作れるというのはものすごい事である。イタリアにおいて国葬されるのはもっともである。日本もそういう所を見習ってほしいものだ。美空ひばりも黒澤明も国葬にするべきだったのに。
しかし、フェリーニの映画を見ていて思うのは彼個人の素晴らしさの問題は置いておいて、イタリア映画独特の匂いというのがあるわけだが、日本映画にも日本映画独特の匂いがある。その中で、日本の映画がじめじめして辛気くさくてアンニュイなのは仕方がないことだが、それだけがすべてではないだろう。そんなに引き出しは少なくないだろう。やけに深刻で、それがまた良いというのがありそうである。素晴らしい監督も沢山いるし、若い監督も頑張っているので邦画というくくりをするべきではないのかもしれないが、素晴らしい映画がミニシアター系など言われて分類されることに多少寂しさを感じる。
良い物を広めたいというのは、自ら感動した人すべてが思うことなのではないだろうか。例えそれが3%も通じなくとも。
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by masarumizushima | 2007-05-15 07:15

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