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光の色と街の色


パリの街頭はオレンジ色が多い。
古い街頭が残っている地域はまるでタイムスリップしたかのように優しい光で僕たちを包んでくれる。

そのパリに初めてガス灯が点灯したのは第二帝政期。ちょうどボードレールがいた時代である。それまで夜は暗く闇によって閉ざされていた世界が言葉の通り光を浴びて輝き出し、闇に乗じて行われる犯罪から多少は解放され夜の散歩が流行し出した。
パリの都市が皇帝のナポレオン三世と市長のオスマンによって改造され現在のパリの形に整備されたのもこの第二帝政期。その前までパリンの中心に位置するシテ島は貧困層の溜まり場だったらしい。
夜中に散歩中にこの街頭を見ると自分自身が第二帝政期のパリにいるような気分になる。電球がガス灯に変わり、車は目線から消える。残る石造りの建物とオレンジ色の光はボードレールが詩を書いていた情景を身近なものしてくれる。
印象派が生まれたのは第二帝政期の直後、この時代に近代魔術を代表するエリファス・レヴィが生まれ魔術を復興させ後の印象派に代表される芸術家に多くの影響を与えているのではないかと僕は思っている。少なくともボードレールやランボーなどの詩人や作家はその神秘的世界の影響を受けている。それは街頭がなかった時代の名残なのかもしれない。

日本は基本的に蛍光灯。
それだけで大きく違うのだけど、僕は蛍光灯のような色も好きなのかもしれないとこの頃になって思う。正確には蛍光灯に入っているグリーンは嫌い。
この蛍光灯は現代を象徴する光な気がする。
陰をなくすように光は乱反射しながら僕を包む。浮かび出されるイメージはその場所から隔離され混合される事は無い。物体は物体としてそこにあり、情緒を超越した所にその物体を運ぶ。それも時が経ち哀愁をおびて情緒的に変化しはじめる。
新しい物を吸収し混沌としながらも存在する左翼的発想が基本の日本という国は面白い。
蛍光灯というよりもあの色が好きなのかもしれない。
光に色があると思っていなかった頃、何も考える事なく光の色は蛍光灯の色だった。白熱電球は妙に古くさくて貧乏臭いと感じていた。
時代は蛍光灯で未来は蛍光灯によって存在した。

街を彩る多色のネオンはこれからやってくる新時代的で未来的な印象を今になっても僕らに与えてくれる。その過去においての未来のイメージそのものもまとめて過去のものとして捉える事が出来るが、その無機質で何の暖かみもなく物事と関わろうとする便器文化の象徴の一つがこの蛍光灯である。
その無機質で無感情的な所が僕は好きである。
無機質の存在は有機物をその場から浮き彫りにする。夜の公園では遊具が怪しく光り輝き、土や動物や人を滑稽な存在にする。



そもそも人工的な光によって街を照らすということは自然な事ではない。しかしそこに存在していることは自然な事。そこに人間の息吹を与えるということは光という人工物での自然に対する着色なのではないだろうか。




光の着色でまず思いつくのがアミアンの大聖堂の光のインスタレーション。
この写真で色がついている部分はすべて光によって着色されていて、普段の色は白。
このインスタレーションを見てからというもの僕の大聖堂を見る目が変わり、今まで以上に生々しく見れたというのは言うまでもない。



蛍光灯を使った芸術家といえばDan Flavinが出てくるのではないだろうか。アメリカ人の彼の作品を見る事が出来たのは去年の回覧展が最初だったのだが、素晴らしかった。


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Dan Flavinの展示会。
写真も見れます。


先週の土曜あたりからパリは今更になってやっと天気が良くなってきている。それでも夏という気はしなく、秋の始まりのような気がしてならないのだが、それでも街行く人の表情は明るみを含み、気持ち足取りが軽やかになっているような気がする。
特に土曜の夜などはサタデーナイトフィーバーだった。映画のような退廃的な匂いはもちろんないけど、はしゃいでいる若者が印象的であった。
話の中に出て来たノートルダム大聖堂を土曜の夜に作品撮りのついでに撮ってみたのだが、白熱電球と蛍光灯と久しぶりの太陽にはしゃいでしまった若者の姿が写っている。

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雨乞いが成功した原住民もこんな感じなのだろうか。
この写真を見てもわかるように蛍光灯はグリーンになり、白熱電球はオレンジになる。


夜中に高速で街に近づくと街が光輝いているということに感動する。日本でもきっとそう思うのだろうが、フランスの高速が暗いので余計にそう思うのだろうと思う。
パンドラの箱に最後に残った希望は光であったように、光というのは人の心を強くひきつけるのかもしれない。天使が降りてくるのは光の下で、死者が天に昇るのも光の中である。歴史上存在する多くの聖人は光に包まれている。
そんな光をオーラと呼びテレビに出て人気を集めている人もいるようだが、占いの域を超えないように思う。占いというと呪術的になるので今日の話題から外れるのでやめておくが、光は善で闇は悪だというイメージが存在するのは確かなことだろう。
光は心を奪い無心にさせ苦痛を取り除くが、闇は人の心を捉え想像させる事によって人生の辛さを思い出させる。
その光に色があるというのは光を気にしない人には驚く事かもしれない。強い光は全て白になるが、弱くなると色が見えてくる。夕焼けが赤くなったり、日暮れすぐに光が残っている状態が青いのを想像してもらえばわかりやすいかと思う。

光が希望ならば、その希望は決して一つではない。
太陽がなければ日光は存在しないが夜空の星は輝いている。
その希望をつないだ形が星座であるとしたら、闇にのみ想像があるのではなく希望にも創造的な部分がいくらでも存在すると言えるのではないだろうか。
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by masarumizushima | 2007-08-28 06:56 | 写真

オヤジギャグの必要性

この頃、オヤジギャグを言ってしまうことが多い。
オヤジギャグというのは寒いだけで無意味な気もするのだが、本人にとっては言わないと気が済まないものらしく本人にとっては必要な物らしい。

そういうわけでこういった書くべきことがない日において何を書こうかと考えたのだが、書く事がないので無意味という言葉が登場したついでに「無」について書こうかと思う。

無とは数学で言えば0である。何もないという事。しかしそれを哲学的に考えた場合には「無」という意識をした時点で認識され存在するものとなってしまう。それならば本当の意味で無とは一体なにぞやという事になる。善と悪ならば話は早いのだが無と有というのは対極に位置しておきながらそう簡単にはいかない。ゼロという認識は数字が出来た当初は存在せずに、ゼロという概念がインドにおいて形成されるにはその後にかなりの年月を待たねばならなかった。その時点において「有る事」と「無い事」というのは二元的には存在しなかったということになる。「有」が存在すると思うからこそ「無」も存在するということである。これは悪と善のように二元的には存在しないという事でもある。悪も善も人の認識によって変わるものだが、相対する感覚も反対の感覚を意識しない限りは存在し得ない。おせっかいおばさんが善かれと思って行動する中に彼女自身の中には悪というものは存在しえない。それが他人から見れば悪という要素を含んでいようとも彼女自身の中では悪というものは意識されることはない。それならば本人が悪と認識しなければ本人にとっては善かというとそんな単純なことではなくて、絶対的な真理というものはそこに当てはまることはない。主観と客観というのも言葉の定義から始めなければいけないが、人が物事を考える上で客観的に考えた所で本人が考えている以上は完全なる客観視など出来るはずはない。ならば全ては主観しか存在しないのかというとそうではなく、自身の中で客観という意識をした時点でそれは客観になりうるのではないかと思う。
話が大きく本筋から外れてきたが善と悪というグノーシス的二元論とは別の視点で物事を考えるとすれば、自分の意思を超える存在が有ると認識することである。それが錬金術で言えば真理に当たり、神であるのではないだろうか。自分の中で認識する絶対的何かに物事を投影し考えるというのは人間が人間として生きる上で必要な事なのではないかと思う。誰かが「客観的な視点なくして真の芸術はありえない」と言っていたが客観的視点なくして真の善というのはありえるはずはないのである。なぜなら分かりやすく例えたら、炎天下でアイスを食べたい人にアイスを100本プレゼントした所で迷惑であるように相手の喜ぶ事を想定したら100本あげたいというのは気持ちで止めておいてどうしたら喜ぶかというのを考えなければいけないからである。
日本では無というと「存在しない事」を指すことが多いが、数字のゼロを発見したインドでは「存在しない事」を「無が存在する」と言うらしい。

禅において無心というのは心に何も無い状態ではない。ニュートラルな状態である。スポーツでも似たような事で「脱力」というのがある。力を入れるよりもある程度は力を抜いた方が力が入るというものである。有るという認識をするよりも、無くすという認識をした方が有る事が出来るというのは大変面白いように思う。「どこに行くか分からない人ほど遠くまで行く事が出来る」というのもあった。そう考えると裏返せば無は有であるという事が出来るのではないだろうか。ならば本当の意味で「無」とは一体何だろうか。

今度は禅に近い仏教的見解で無というものについて触れてみようと思う。仏教用語で無が一番使われるものといえば「無我」ではないだろうか。無我の境地と言われる事もあるが、無我とは自分自身の執着を超越することにある。意識の先で自分という感覚を超越した時である。これは仏教的に無我の境地に達したというよりも、もっと別の手段を用いれば皆さんも体験した事があると思うが自分自身の意識を超越するというのは日常的にある事である。変な話、寝る瞬間というのは寝るという意識もなくなるわけで誰も寝る瞬間を覚えている人などいない。それを無我だというわけではないが認識していないという点ではそうだと言えるのではないだろうか。接客業をしている時に、熱で意識が朦朧としていて働いていた記憶がないという事があったがきっと働いている時には意識はあったはずなのにどこかで途切れてしまったのだろう。寝ていては接客が出来るはずもないし走り回ることなど到底出来るわけはない。記憶障害というのは大変面白いものである。

では何かを有させるという点において創造的という観点から見てみようと思う。「創造」の対義語としてよく使われるのは「破壊」である。しかしそれは違うのではないかと僕は思う。なぜならば破壊の次に行われるのは創造だからである。破壊というのは創造するという前提で行われるものである。テロという破壊的行為は彼らの中で新しい世界を作ろうとする行為である。戦争もそうである。正当化出来る事というのは創造的なのである。真に破壊的だと言えるものは無である。無に帰す行為というのは誰もが認める事は出来ないのである。無というのは行為にしてみると理解出来ない、分からない事なのではないか。無気力というのは気力は無いわけだが、無気力というものは存在するのである。

「ここまで書いて本当にどうでもいい事を言っていると自覚しているのだが読み返すのも面倒なので誤字脱字が多い事をここで謝っておきます。ごめんなさい。」

最後に物理学的見解で無というものを見てみるとこれが面白いことになっている。
物理的に何も存在しない事を真空と呼んでいたそうだが、現代では真空状態において「真空のゆらぎ」というものによって電子と陽電子のペアが出現するらしく、絶対的に無というのは存在しえない。

よって無というものは概念だけの存在で実際には存在しえないと言えるのではないだろうか。無というのは有(存在する)という事と同義語なのかもしれない。そう思うと「意味のない事なんて無い」という一般的見解を肯定的に見ることが出来るのではないだろうか。無意味や無駄だと認識した時点で無ではなくなる。

そんなわけでオヤジギャグというのも無意味でも無駄でもないというわけである。寒さと戦うチャレンジャー達よ今こそ立ち上がりつまらないと冷ややかな目で見られようともオヤグギャクを胸を張って言うべきである。このつまらない日記も一見無意味そうで何かしら意味があるのだ。そうやって無意味に肯定してみたが、無意味を積み重ねた所で無意味な事には違いないのである。

途中二元論でグノーシス主義を出したのでカタリ派について書きたがったが話が外れすぎるのでまた今度にしよう。

夜中に空腹だが、今日の観点でいくとお腹に何も無いのではなく空腹が存在するということなのだろうか。だがお腹が減った事には何も変わらないのである。夜中に何か食べるのは体に良くないと言われているが腹が減ったものは仕方がない。空腹を認識したって腹が満たされるわけじゃない。まったく生きるのは大変だ。
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by masarumizushima | 2007-08-09 10:38

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